問題と解決

 

コロナのがきっかけで

私はほとんど何も知らないことを痛感した。

 

色んなことを知ろうとするほど

矛盾だらけで

ひとつ理解したら終わりではなく

理解した先もまた枝葉のように

たくさんのことが待っている。

 

表のものを見て、それで

わかったつもりになるのは早すぎて

 

だからといって

裏を見たらそれでわかったかともいえない。

 

 

コロナが出た時に

未知なるもので、恐怖が出た。

 

テレビの映像で、道端で突然人がパタリと倒れ

動かなくなった映像が初期の頃流れていて

それを見た時に

【感染したら最後。命取り】と言わんばかりに

恐怖に支配された。

 

だけど、そこでふと思ったのは

まだ私が知る情報が足りていないと思い直し

たくさんのことを調べ始めた。

 

そうすると、色んな情報に出会った。

 

私が知らなかったことも知れた。

疑問に思う私と同じように

疑問を持ちながら情報を集めてる人達が

たくさんいた。

コロナのワクチンについても

たくさん調べた。

図書館に行って、本もたくさん借りて読んだ。

 

 

だけど、私に真実はわからなかった。

 

情報を追えば追うほどに

人によって様々なことを言っている。

 

どこまでいっても誰に聞いても

きっと○○だろう、○○のはずだ、○○である、これしかない、こう聞いた、など伝え方も様々で

考え方や信じるものがそれぞれ違うように

それぞれが ”こう思う” 憶測を知ることしか出来ないのだと感じた。

 

私がいくら世の中の情報を掴んだとしても

その中のどの情報を選び、信じるかは

その人たちと同じようにどう感じるか、何を信じるかは、私次第だからだ。

 

そういう意味では、私は私以外のとこに

真実はないのだと思った。

 

真実であるかどうかは

自分だけが知っていて

真実であるかどうかは

自分で決めること。

 

” 選んで決めること ”

それこそが自分にとっての真実になるのだと

いうことに気付いた。

 

 

わたしは

必ずしも問題となるものが

悪とは限らないと思っている。

 

問題だと思われるものが出てきた時、

それを解決するために打ち出されてるものが悪の場合も大いにある。

 

(ここではそもそも善悪はないとかいう概念はまた別の話で、表現方法のひとつとして悪と表現してる)

 

問題と呼ぶものが起こった時、

問題は無くすもの

問題は解決しなければならない

 

そんな思いこそが問題になる場合もある。

 

 

もしも、頭が良く、人のことを物として見ている心無い者がビジネスで成功しようと悪知恵を働かせ、

売りつけたい ” 何か ” があるとしたら

その売りつけたい何かを売るには

売りつけたいものが売れるように

あえてそれなりな ” 問題 ” を作り、

人々を誘導し、売りつけて儲けようと

企む人もいるかもしれない。

 

 

このお金至上主義になってる世の中で

そんな人がいるはずもないと考えるのは

危険なような気もした。

 

これで当てはめてみると

未知なる風邪が発生して、解決策として薬が出る。

 

未知なる風邪を恐怖だと思う人は

なんとかしてもその薬を手に入れようとする。

 

でも、その薬を売りつけるために

あえて流行らせた未知なる風邪だったら…。

 

風邪は自然発生するものだけじゃなく

意図的に人が発生させることが出来るものだとしたら…。

 

 

薬を売りたい人の意図が

売りたいだけじゃなく、

他の意図をもっていたら…。

 

 

わたしはそんなふうに思うのです。

 

これを、考えすぎ とか思う方も

もちろん居るでしょう。

 

だけど、私は、考えすぎ以前に

可能性は無限にあるもので

絶対はないと思うから。

 

選ぶことや信じることが

自分にとっての真実になるなら

 

あらゆる可能性の中から

選びたいし、信じたい。

 

 

ひとつの可能性からだと

そもそも選ぶことすら出来ないということ。

 

 

わたしは、人が一生懸命に何かにうちこむ姿に

心が動かされる。(感動する)

悲しいや嬉しいと涙を流してなりふり構わず悲しみや嬉しさを味わっている人をみると、心が動かされる。

未知なるもので、姿や正体がまったく見えず

確認のしようもない、経験もないことに恐怖が出る。

 

心が動く何かは、人によってさまざまではあるけど、人の感情を不意でも故意でも揺さぶられるとしたら、人はそのままに動きをとりやすくなることは明らかで。

 

 

だから、冷静にそのものを見つめることは

大事だなとも思う。

 

 

そもそも、問題とされるものを

無条件に無くすべきものだと思ってないだろうか?

 

問題とされるものを

解決しなきゃダメだと思い込んでないだろうか?

 

これがあると

無条件に「問題=悪、解決=善」になりやすく

視野がめちゃくちゃ狭くなり

早まった答えを出してしまいがち。

 

 

答えを出すのは急がなくてもいいはず。

自分が納得までいってないものは

無理矢理納得させるのではなく、

自然に納得出来るまでとことんそれに向き合ってもいいはず。

人が早く決めたからといって、それに合わせて自分も早く決めることをしなくてもいいはず。

理解するスピードも、納得するタイミングも

それぞれでいいはず。

 

 

そんなふうに思った。

 

 

Twitterや人との会話を聞いてると

問題に目を向ける人は多いけど
解決に目を向ける人はとても少ないと感じてる。

 

問題を早く解決するには とか

そもそも問題が起こらないようにするには とか。

 

解決するには ○○しかない とかも聞くけれど

 

これは解決に目が向いてるとはいえない。

 

 

問題を問題と捉えてるうちは

解決したとおもってもまた更に問題を作りだす。

 

解決は、そもそも

問題を問題だと捉えないこと。

 

そしたら自然と

解決してるものである。

 

 

解決するには

これは一見、解決だけを見てるように思うけど

問題と解決をいったりきたりしてる状態で

 

エネルギーが分散されてる状態。

 

 

問題を問題だと捉えてない場合、

問題以外の場所へエネルギーをむけてる状態だから。

 

 

今日のブログはこれでおしまい😃笑

 

 

 

ザワザワした違和感

 

久しぶりに昔の職場の人と電話した。

 

その人は私より一つ上の男性で

元々お店の店長だった人。

 

数日前に不在着信が入ってて

かけ直すのを忘れたまま数日がたって

今日、かけ直した。

 

相手の要件だけ聞いて電話を切ろうと思ってたけど、要件以外に「ちょっと久しぶりの電話で悪いけど聞いてくれる?」って言われて話を聞くことにした。

 

全体的に、よくある

たわいもない話だったんだけど

聞いてる時、ザワザワした違和感がずっとしていて

途中から聞いてられないって感覚になった。

 

でも話を聞くと決めたのは私だから

一応最後まで聞いて、

世間話をしたあと普通に電話を切った。

 

電話中に、ザワザワしてるからといって

相手にどうこう言いたい気分でもなかったし

相手から私に攻撃されるようなことを言われたわけではないから、そういう不快感ではなかったけど

なんともいえないザワザワがなんなのか

わかってなかったから自分の中を整理するために

電話を切った後、掘り下げてみた。

 

 

 

彼が主張する中に

 

自分は金はあると主張する裏に

彼の劣等感を感じた。

 

自慢や自分の凄さや過剰に幸せを主張する裏に

彼の優越感を感じた。

 

会社の人の愚痴を主張する裏に

彼の敗北感を感じた。

 

 

本音のとこでは幸せだと思っていることを

人にはあえて不幸せのように悲劇な話にして語り

「そんなことないじゃん、幸せじゃん」って言ってもらえるように言動を無意識に誘導し

相手を使って相手に肯定してもらい満足感を得る。

 

不足に思ってることを

人にはあえて満ち足りていて幸せかのように語り

「いいなぁ」って言ってもらえるように無意識に誘導し、相手を使って存在価値を得る。

 

 

わたしがどの話を聞いてても

ザワザワして聞いてられない感覚になったのは

 

彼の主張から感じるちぐはぐ感。

口から発せられる言葉のエネルギーと

彼自身が無意識に発しているエネルギーとの

ちぐはぐ感に反応していたのだった。

 

 

相手がどんな人であろうと

この視点から視ることを自由自在に出来たら

嫌な人居なくなるやん!!って思った😳

 

 

だって相手がいっけん嫌な人だろうと

こっちが勝手にひとりで

楽しめるようになるんだもん。笑

 

それがわかった瞬間

おもろーーーー!!!!ってなって

 

 

謎が解けたかのような

スッキリ感でいっぱいになった😁

 

 

話してて、悪気はないんだろうけど

自分が話のイニシアチブを握ろうとする人がいるけどわたしはそれが感覚でわかるから

あえてそのペースに乗らないとか、あえて乗るとかを相手が求めてる逆をしたりする人で😂(ちょっといじわるw)

 

イニシアチブを握ろうとしてる人が自分のペースに相手が乗ってくれてる時は気持ちよくなって

そこで優越感かんじて調子にのりだす人もいるし

 

でも私みたいに

乗ってるかと思いきや、乗るのやめたりするタイプはやりずらくなるのか

急にこっちのご機嫌取りとかしだす。笑

 

 

そういうのが今は万人に

顕著にわかるようになってきてる気がするな〰️。

 

 

人は言葉じゃなくて

エネルギーで受け取ってることが大半だから

感覚がひらいてくればくるほどに

言葉はいらなくなるのかもしれないと思っている。

 

 

あ〰️おもしろい🤩

 

感受性が昔から豊かな方で

それによってたくさん嫌な思いをしたり

悲しい思いをしたりして

一時は感じたくないと思ってたけど

こうやって遊べる術がわかった今、

めちゃくちゃ有難い感性を持ったなと心から思う。

 

この感覚、たいせつにしていきたいなと思った。

 

 

今日のブログはこれでおしまい🙋‍♀️笑

 

 

 

 

 

 

幸せ/いい気分が好きな人

 

きっと人類ほとんどが

幸せ/いい気分が好き。

 

どの”瞬間”に感じる幸せが最も好きかの問いだと

”人それぞれ”になるのだけど

 

幸せになりたいと願い

いい気分になりたいと

何かを成し遂げたり、何かを買ったり

どこかへ行ったり

誰かといる事がほとんどで。

 

何かをもつことも

何かをすることも

どこかへ行くことも

誰かと一緒に居ることも

 

突き詰めると全部

それをしたら

” 幸せ/いい気分 ” を感じるからだ。

 

じゃあ、もしもAさんにとっては

幸せになる為に【成功】が必要だと思ってる場合

きっと我武者羅にそれを得るために

必死に頑張るだろう。成功が手に入ったら

いい気分になれると思ってると

頑張って成功が手に入ればその一瞬はいい気分を感じられて、それはそれでいいのだけど、

きっとこの場合は

成功を得ても今度はその成功を維持させるための努力を死ぬまでひたすら続けることになるし、不可抗力でそれが無くなるようなことがあった時は絶望するだろう。

必死に頑張って得た成功を守るためには今度は

異常な程にその成功に執着しだすし、なくならないように人から奪われないようにと頑張っては疲弊していく。なぜなら、この世界は自然の流れがあって

その流れは絶対に止められないからだ。

 

死にたくないと思ってもいずれ死ぬ。

壊れて欲しくないと思っても、ずっとそこにあって欲しいと思ってもこの世界にある時間というものは止められない。形あるものは全てその流れの中に居るからいずれ形を変えゆくものだ。

 

新品の物を買ってもずっと新品のままであってほしいと思っても使えば古びていくし、新品のまま保管してるものでも時間が経てば経年劣化が起こる。

 

てことは、Aさんの成功も本当はほんの一瞬の成功体験なるもので、成功した時からすでにその成功は形を変え始めるのが必然で。

 

その成功たるものがなくなったら

必然的にAさんは不幸せということになる。

 

不幸せになったらなったで、また次の成功を追い求め、まだ足りない、まだまだやらなきゃと

ラットレースがはじまっていく。

 

こうやって【⠀】の中が人によって違うだけで

自分の外にあるものを追いかけては失い、

幸せになれないと嘆きだす。

 

私は34年間、そうやって生きてきました。

 

 

私にとって【⠀】の中は、ずっと、

” 彼氏 ” だった。

 

幸せ/いい気分になるためには、

彼氏がいないとなれないと思ってた。

守ってくれたり、支え合えたりする彼氏がいたら

幸せになれるのにと思ってきました。

 

だけど、どんな人と付き合っても

結末はだいたい同じで

付き合った瞬間は幸せを感じるけど

その瞬間が過ぎれば

思ってた感じと違うとか、

起こる出来事には当たり前だけど

いい事ばかりじゃない。そしたらその度に

なんで?なんで?ってことをおもいだして

常に相手に対してや、起こる出来事に対して

条件を付けたまま見てました。

 

もっと〇〇だったら幸せ/いい気分になれるのに。

→だから、〇〇になるように頑張りだす。

 

もっと〇〇してくれたら幸せ/いい気分になれるのに。

→だから〇〇をやってくれるように相手を無意識にコントロールしだす。してくれなかったら幸せじゃなくなる。=幸せは相手次第になる。

 

もっと〇〇やったら幸せ/いい気分になれるかな。

→〇〇出来なかったら幸せじゃなくなるから、どうやっても〇〇が出来るように頑張る。出来なくなった瞬間から幸せ/いい気分じゃなくなる。

 

こんなふうにいつも〇〇に条件をはめこんで

今度は、その条件を満たすか満たされるかで

幸せを追い求めていってた。

 

いつの間にか【彼氏】がいたらの条件から違う

条件に変わり、都度〇〇の中が変わってくだけ。

 

ことあるごとにそれを繰り返してるもんだから

自分も辛くなってくし

相手にも負担が増えることになって

結局嫌気がさして別れる。

 

ずーーーーーーーーっとこのパターンでした。

 

でもこれがわかるまで

何が原因なのかがわからなかった。

 

自分の性格が悪いからだとか

相手の器が小さいからだとか

相性が悪かったからだとか

愛されてなかったんだと

お門違いな理由をつけては

同じこと繰り返してた。

 

 

そうすると、好きな人が出来ても

今度は好きな気持ちが煩わしく思えてきたり

 

好きな人が出来たら

絶対また傷つく&傷つけるとおもいだして

好きな人が出来ることを異常に恐れだした。

 

私が人を好きになったらその人をダメにしてしまうとか、どうせ別れがくるなら最初から付き合わないとか、もし彼氏が出来ても幸せになれそうになると自分から壊すようなことをしたりしてきた。

 

だって、いつか壊れるくらいなら

自分から壊した方がマシだって思ってたから。

 

関係が壊れるのが恐くて

お別れするのが恐くて

嫌われるのが恐くて

一緒に居られなくなることが恐くて

自分の傍から離れていなくなられるのが恐くて

 

なぜなら

関係が壊れた時に感じる悲しみとか

お別れした時に感じる失望感とか

嫌われた時に感じる絶望感とか

焦燥感や劣等感

そういうネガティブな感覚を感じるのが嫌だったし

感じてはいけないものとしていたこと。

 

だから、そんな思いをするくらいなら

だったらもう付き合わない or

関係が壊れる前に自ら壊すをしてきてた。

 

 

でもね、本当の幸せはそこじゃないって

気付いたの。

 

 

何かを得ることや

誰かと居ることや

何かをすることや

どこかに行くことが

幸せの本質ではなくて

 

幸せは” 感じる ”ものだったということ。

 

もしもたくさんのいい事を受け取っても

それらを感じる力がなかったら

幸せって感じられない。

 

お金がたくさんある人でも

不幸せな人ってたくさんいる。

 

彼氏や旦那さんがいても

不幸せに感じてる人もたくさんいる。

 

どこかへ旅行へいっても

考え事ばかりしてたら

その瞬間って味わえない。

 

おいしいものを食べても

感じる力がなかったらそもそも

おいしいとも感じられない。

 

人から賞賛されても

可愛いねって言われても

すごいっていわれても

受け取れない。

 

幸せって、

” 感じれること全て ” 含まれる。

 

嬉しい時に感じるワクワクする感じや

楽しい時に感じるルンルンする感じ

そういう感情は感じやすいけど

 

怒りが出た時に感じるワナワナした感じとか

不安が出た時に感じるモヤモヤした感じとか

悲しみが出た時に感じる胸がギューってする感じとか

恐い時に感じるドキドキした感じとか

そういうのを感じなくして

気を紛らわすことをしてる人が多いんじゃないかな。

 

そういうのを感じたくないから

感じないようにするために行動する。

 

私がそうだったから。笑

 

でも本当はそんなネガティブな時に感じる感覚も

宝物なんだ。

 

ワナワナした感じもドキドキする感じも

ソワソワする感じもギューって苦しくなる感じも

本当はこわいものじゃなかった。

 

それを感じるのは少し苦しいし

不快な感覚になるから

自分に対して無力感を感じたり

孤独感を感じたり、絶望感を感じたり、

それらを感じたら自分が自分でいられなくなってしまう、死んでしまうんじゃないかと思いこんでいたから、異常にそんなネガティブな感覚を恐れてただけ。

 

でも本当はそれらを感じたって自分の存在価値は

なくならないし、感じることで命がなくなるものでもない。

それらを感じてもホントの意味での不幸には決してならない。

 

もし例え身体が痛くても

痛みを感じることを自分にOK出来てたら

痛みがあるその瞬間でも

痛みを感じることが幸せってなる。

 

みんな感じる力は産まれながら備わっていて

感じることが出来ない人なんていない。

みんな五感がない人なんていない。

 

見て味わえる。

聞いて味わえる。

あじを味わえる。(ギャグじゃないよw)

触って味わえる。

 

肉体で感じれることこそが

人の幸せってことなんだ。

 

そう思ったら、

ポジティブだろうとネガティブだろうと

感覚感じれたら幸せなわけだから

そんなのどっちでもいいってことだよ。

なんでもいいってことだよ。

どんな感覚であっても

感じることが全て であり、ゴール。

 

もしも、この世界が

何かを持つこと、何かを成し遂げること、何かを得ること、誰かが傍にいること、どこかへ行くこと、

そのものが幸せの本質の世界だとしたら

お金がなくて持つことも成し遂げることもどこかへ行くことも出来ないなら一生幸せにはなれないってことになるし、金を得るためだけに一生を捧げることになる。

 

本当に欲しいのは

何かを得たり、何かを持ったり、何かを成し遂げたり、どこかへいったり、誰かと一緒にいるその時に感じるだろう” 感覚 ”の方。

 

感覚には条件はないよ。

どんな感覚であっても感じられるよ。

 

条件がついたものの中に

幸せの本質ってない。

 

 

みんな、本当は今すぐ幸せになれるんだよ。

 

そして、産まれながらにして

すでにもう幸せを手にしてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の中に鬼がいる👹

 

 

その鬼から逃げ続けて

直視しないかぎりは

 


いくらポジティブシンキングしても

 


行動が変わらないから

 


現実変わらない

 

 

 

フワフワ浮ついてても

本当の意味で思考は変わらない。

 


無理にポジティブシンキングしたところで

心の闇とのギャップに苦しみ続ける。

 


ポジティブシンキング出来てるうちはいいけど。

 


自分に向き合う覚悟がないなら

ずっと人とも向き合えないままだろう。

 


人と向き合うことも

自分と向き合うこともないなら

 


人生、ただ消費するだけの生き方で終わるだろう。

 

 

風呂場で、ふと感じたこと

この世界は目に見える世界

 

裏には目に見えない世界がある

 

 

裏の世界が表を作っている

 


表が気持ち良い社会にするには

裏の世界を気持ち良い世界にすること

 


目に見える世界は「結果」の世界

 


目に見えない世界は内側の「原因」の世界

 

 

 

現象界(結果)を変えたいならば

原因の世界(内側の思い)の世界を変えよ

 

 

 

原因の世界を変えたなら

現象界も必ず変わる仕組み。

 

一人一人の内側の思いの世界が変わったなら

世の中も大きく変わる

 

まずは

わたしから。

 

 

まずは

内側で起こる自分自身との対立を無くす。

自分の中にある陰と陽。

 

自らを自らで分けて

振り分けてるものをひとつにする

 

統合。

 

自分の全てを許すこと。

 

 

 

 

 

無題

2023年1月27日

 


すずめの戸締まりを見た。

 


話の内容的にも

今の私に刺さり

 


感動して映画館で一人泣く。笑

 


映画を見た感想は

とにかく見てよかったし、泣けた。

 


話の核になるとこは

『自己統合、インナーチャイルドの癒し』

だと思った。

 


自分の中の男性性と女性性の統合。

 


過去(子供の時)に作った

トラウマからの解放

 


潜在意識の書き換え

 

 

 

これらは、これからの私にとって

避けては通れない部分だと実感していた。

 

 

 

そんな中

 


【2023年1月31日】

 


その日から始まった

サイレントプログラムへの参加。

 


前に他のプログラムを受けるために

参加したコミュニティ内で

新たなプログラムを受けれるという話が

映画に行く前に流れてきていて

追加料金なしで受けれるプログラムだから

やってもやらなくてもいっか~って

最初は思っていたけど

(プログラムの内容が怪しすぎたから(笑))

 


恐いとも思ったし

気味悪いとも思ったし

 


ルシファーに対して

忌み嫌う思い込みを持っていたから

 


悪魔の世界に行ってしまうんじゃないかとか

呪われるんじゃないかとか

 


やたら恐いことばかり思考してしまってた。

 

 

 

だけど、反面

まだ見た事のない世界が待ってる気がして

ドキドキワクワクする自分がいた。

 


恐いけど

やってみたい。

 


どんなプログラム内容かもわからない。

 


恐いけど

気になる。

 


恐いけど

楽しそう。🫣

 


そんな気持ちで参加する流れに。

 

 

 

今、これを書いてる2023年1月4日(節分)の

私が感じることは

 


すずめの戸締まりで見たように

 


私は今、

自己統合、インナーチャイルドの癒し

過去のトラウマ解放、潜在意識の書き換えの

プロセスに入ってるなと。

 

 

 

サイレントプログラムを受けて4日目の今

 


内側の小さな私が

経験したことが甦ってきて

ひとつひとつに向き合わされている。

 

 

 

完璧な流れの中にいて

 


やっぱりちゃんと

導かれてるんだなって

 


また一歩、

自然の流れに対して

信頼が産まれた気がしている。

 

 

 

サイレントプログラムは

21日間あって

 


その時間はとにかく

なんのジャッジもせず

ただ起こってくる感覚に

ひたすら許可をだし

今ここを感じていくことをやっている。

 


1日目から

たくさん泣いて

 


2日目には

気付きがあって

 


3日目には

忌み嫌ってきた感覚を少しずつ

抵抗せず許可出来てる実感があった。

そしたら感じることに

気持ちよさまで感じだしている。

 


4日目には

また昨日とは違う感情や感覚が出てきて

私が潜在的に持ってる思い込みが

ちらほら出てきだしている。

 

 

 

とにかく日常で、外意識ばかりになり

自分の内側がわからず

何が本当なのかわからなくなったり

いちいち右往左往して

意識が今にいれなくなって

目の前のことが感じられなくなり

五感さえもあるようでないような

無味乾燥感があった私だけど

 

 

 

本来の自己を取り戻し

本道を歩むように

生まれてきた目的で

生きるプロセスに入ったと

実感している。

 

 

 

とにもかくにも

21日間、楽しみたい。

 

 

 

全ては感じるために起こっている

 

気付けば、私は

人の顔色を伺ったり、相手が自分のことを

どう思うかばかりに囚われて

自分がどう思うかよりも

相手からの評価や反応ばかりに重点を置いて生きてきたように思う。

 

常に人から嫌われたくないがあったし

嫌われて見捨てられるのが恐かったり

期待を裏切って見損なったとか

相手の求める私じゃなかったら

ガッカリしたって思われるのが恐かったり

必要とされなくなることに恐れがあって

 

もしそうなったら感じてしまうだろう

悲しさや寂しさ、無価値感や無力感、

絶望感や孤独感を感じるのが恐くて

見たくなくて逃げてきた。

 

いい人でいないと嫌われると思っていたし

私の汚い部分とか、奥底にある想いとかを出すと

嫌われて、ひとりぼっちになって

居場所がなくなると思ってた。

 

大事にしたい人の顔色を見ては

その人に気に入られるように

相手の求める私を演じるのが普通だった。

 

自分の本音のその時言いたいことよりも

相手が言って欲しそうなことを言ったり

自分がどうしたいかよりも

相手がどうしてほしそうかを見て

それをやったり。

 

 

無意識ではあったけど

いつからかそんな風にして

自分のことを偽ることが普通になって

その偽りで出来た自分を

自分だと思ってきた。

 

だから、もっと自分を大切にしなさいとか

ありのままでいいんだよって言われても

全く意味がわからなかったし

 

逆に「めぐらしいね」とか

「大好き」って言われても

心の中では ” 私の何がわかるんだよ ” って

思ってたし、心の底から喜べない自分が常にいた。

 

 

ふと脳裏に蘇る。

幼少期の頃、お母さんがピザ一つを机に置いて

家から出てったきり

そのまま帰ってこなかったこと。

 

その日からお母さんのいない生活が始まった。

 

 

お母さんに嫌われたんだと思った。

私がいい子にしなかったからだと思った。

もう私の事が嫌になって出て行ったんだと思った。

私のことが邪魔になったんだと思った。

見捨てられたんだと思った。

お母さんの期待に応えられなかったと思った。

お母さんに必要とされなくなったと思った。

 

寂しくて

でも子供の自分にはどうしようもできなくて(無力感)

待っても待っても帰ってこない(絶望感)

お母さんが傍からいなくなった(孤独感や不安感)

 

 

その時に本当はお母さんに

言いたかった数々の気持ち。

言えなくて心の中にしまいこんだ想い。

 

なんで帰ってきてくれないの

帰ってきてほしい

なんで置いてくの

傍にいてほしい

ママと一緒に居たい

私の何がダメだった?

いい子にするから置いていかないで

寂しい

哀しい

 

 

愛されたかった

一緒にいたかった

安心したかった

もっとだっこしてほしかった

もっとたくさんお話したかった

必要とされたかった

期待に応えたかった

 

 

 

今まで出せなかった数々の想いたちが

たくさん溢れてきて

涙がとまらなくなった。

 

あぁそうか。

 

その時感じ切れなかった想いたちが

まだ私の中に置きざりにされたままなんだ。

 

ずっと深いとこにしまいこんだまま

なかったことにしてるんだ。

 

深い場所に閉じ込めたから

出たがっている感情たちが

現実というフィルムをあの手この手で作り、

それを私に見せることで、感じさせることで

開放されるのを待ってるんだ。

 

 

私がずっと無いものとして

感じないようにしてきた感情たちを

これからたっぷり感じて

開放してあげたいと思った。

 

 

そしたらきっと

 

少しずつ

本来のあるがままの私に戻れるから。

 

たくさん自分に付けてしまったベールのような鎧。

薄皮がはがれていくように

一枚一枚脱ぎ捨てよう。

 

 

もう自分と戦うのはやめよう。

 

見たくないものたちも

本当は全部私の宝物で

愛すべき尊いものたちだったんだ。

 

 

奇しくも今日はお母さんの誕生日。

 

やっぱり私は

お母さんを選んで産まれてきたんだね。