問題と解決

 

コロナのがきっかけで

私はほとんど何も知らないことを痛感した。

 

色んなことを知ろうとするほど

矛盾だらけで

ひとつ理解したら終わりではなく

理解した先もまた枝葉のように

たくさんのことが待っている。

 

表のものを見て、それで

わかったつもりになるのは早すぎて

 

だからといって

裏を見たらそれでわかったかともいえない。

 

 

コロナが出た時に

未知なるもので、恐怖が出た。

 

テレビの映像で、道端で突然人がパタリと倒れ

動かなくなった映像が初期の頃流れていて

それを見た時に

【感染したら最後。命取り】と言わんばかりに

恐怖に支配された。

 

だけど、そこでふと思ったのは

まだ私が知る情報が足りていないと思い直し

たくさんのことを調べ始めた。

 

そうすると、色んな情報に出会った。

 

私が知らなかったことも知れた。

疑問に思う私と同じように

疑問を持ちながら情報を集めてる人達が

たくさんいた。

コロナのワクチンについても

たくさん調べた。

図書館に行って、本もたくさん借りて読んだ。

 

 

だけど、私に真実はわからなかった。

 

情報を追えば追うほどに

人によって様々なことを言っている。

 

どこまでいっても誰に聞いても

きっと○○だろう、○○のはずだ、○○である、これしかない、こう聞いた、など伝え方も様々で

考え方や信じるものがそれぞれ違うように

それぞれが ”こう思う” 憶測を知ることしか出来ないのだと感じた。

 

私がいくら世の中の情報を掴んだとしても

その中のどの情報を選び、信じるかは

その人たちと同じようにどう感じるか、何を信じるかは、私次第だからだ。

 

そういう意味では、私は私以外のとこに

真実はないのだと思った。

 

真実であるかどうかは

自分だけが知っていて

真実であるかどうかは

自分で決めること。

 

” 選んで決めること ”

それこそが自分にとっての真実になるのだと

いうことに気付いた。

 

 

わたしは

必ずしも問題となるものが

悪とは限らないと思っている。

 

問題だと思われるものが出てきた時、

それを解決するために打ち出されてるものが悪の場合も大いにある。

 

(ここではそもそも善悪はないとかいう概念はまた別の話で、表現方法のひとつとして悪と表現してる)

 

問題と呼ぶものが起こった時、

問題は無くすもの

問題は解決しなければならない

 

そんな思いこそが問題になる場合もある。

 

 

もしも、頭が良く、人のことを物として見ている心無い者がビジネスで成功しようと悪知恵を働かせ、

売りつけたい ” 何か ” があるとしたら

その売りつけたい何かを売るには

売りつけたいものが売れるように

あえてそれなりな ” 問題 ” を作り、

人々を誘導し、売りつけて儲けようと

企む人もいるかもしれない。

 

 

このお金至上主義になってる世の中で

そんな人がいるはずもないと考えるのは

危険なような気もした。

 

これで当てはめてみると

未知なる風邪が発生して、解決策として薬が出る。

 

未知なる風邪を恐怖だと思う人は

なんとかしてもその薬を手に入れようとする。

 

でも、その薬を売りつけるために

あえて流行らせた未知なる風邪だったら…。

 

風邪は自然発生するものだけじゃなく

意図的に人が発生させることが出来るものだとしたら…。

 

 

薬を売りたい人の意図が

売りたいだけじゃなく、

他の意図をもっていたら…。

 

 

わたしはそんなふうに思うのです。

 

これを、考えすぎ とか思う方も

もちろん居るでしょう。

 

だけど、私は、考えすぎ以前に

可能性は無限にあるもので

絶対はないと思うから。

 

選ぶことや信じることが

自分にとっての真実になるなら

 

あらゆる可能性の中から

選びたいし、信じたい。

 

 

ひとつの可能性からだと

そもそも選ぶことすら出来ないということ。

 

 

わたしは、人が一生懸命に何かにうちこむ姿に

心が動かされる。(感動する)

悲しいや嬉しいと涙を流してなりふり構わず悲しみや嬉しさを味わっている人をみると、心が動かされる。

未知なるもので、姿や正体がまったく見えず

確認のしようもない、経験もないことに恐怖が出る。

 

心が動く何かは、人によってさまざまではあるけど、人の感情を不意でも故意でも揺さぶられるとしたら、人はそのままに動きをとりやすくなることは明らかで。

 

 

だから、冷静にそのものを見つめることは

大事だなとも思う。

 

 

そもそも、問題とされるものを

無条件に無くすべきものだと思ってないだろうか?

 

問題とされるものを

解決しなきゃダメだと思い込んでないだろうか?

 

これがあると

無条件に「問題=悪、解決=善」になりやすく

視野がめちゃくちゃ狭くなり

早まった答えを出してしまいがち。

 

 

答えを出すのは急がなくてもいいはず。

自分が納得までいってないものは

無理矢理納得させるのではなく、

自然に納得出来るまでとことんそれに向き合ってもいいはず。

人が早く決めたからといって、それに合わせて自分も早く決めることをしなくてもいいはず。

理解するスピードも、納得するタイミングも

それぞれでいいはず。

 

 

そんなふうに思った。

 

 

Twitterや人との会話を聞いてると

問題に目を向ける人は多いけど
解決に目を向ける人はとても少ないと感じてる。

 

問題を早く解決するには とか

そもそも問題が起こらないようにするには とか。

 

解決するには ○○しかない とかも聞くけれど

 

これは解決に目が向いてるとはいえない。

 

 

問題を問題と捉えてるうちは

解決したとおもってもまた更に問題を作りだす。

 

解決は、そもそも

問題を問題だと捉えないこと。

 

そしたら自然と

解決してるものである。

 

 

解決するには

これは一見、解決だけを見てるように思うけど

問題と解決をいったりきたりしてる状態で

 

エネルギーが分散されてる状態。

 

 

問題を問題だと捉えてない場合、

問題以外の場所へエネルギーをむけてる状態だから。

 

 

今日のブログはこれでおしまい😃笑