全ては感じるために起こっている

 

気付けば、私は

人の顔色を伺ったり、相手が自分のことを

どう思うかばかりに囚われて

自分がどう思うかよりも

相手からの評価や反応ばかりに重点を置いて生きてきたように思う。

 

常に人から嫌われたくないがあったし

嫌われて見捨てられるのが恐かったり

期待を裏切って見損なったとか

相手の求める私じゃなかったら

ガッカリしたって思われるのが恐かったり

必要とされなくなることに恐れがあって

 

もしそうなったら感じてしまうだろう

悲しさや寂しさ、無価値感や無力感、

絶望感や孤独感を感じるのが恐くて

見たくなくて逃げてきた。

 

いい人でいないと嫌われると思っていたし

私の汚い部分とか、奥底にある想いとかを出すと

嫌われて、ひとりぼっちになって

居場所がなくなると思ってた。

 

大事にしたい人の顔色を見ては

その人に気に入られるように

相手の求める私を演じるのが普通だった。

 

自分の本音のその時言いたいことよりも

相手が言って欲しそうなことを言ったり

自分がどうしたいかよりも

相手がどうしてほしそうかを見て

それをやったり。

 

 

無意識ではあったけど

いつからかそんな風にして

自分のことを偽ることが普通になって

その偽りで出来た自分を

自分だと思ってきた。

 

だから、もっと自分を大切にしなさいとか

ありのままでいいんだよって言われても

全く意味がわからなかったし

 

逆に「めぐらしいね」とか

「大好き」って言われても

心の中では ” 私の何がわかるんだよ ” って

思ってたし、心の底から喜べない自分が常にいた。

 

 

ふと脳裏に蘇る。

幼少期の頃、お母さんがピザ一つを机に置いて

家から出てったきり

そのまま帰ってこなかったこと。

 

その日からお母さんのいない生活が始まった。

 

 

お母さんに嫌われたんだと思った。

私がいい子にしなかったからだと思った。

もう私の事が嫌になって出て行ったんだと思った。

私のことが邪魔になったんだと思った。

見捨てられたんだと思った。

お母さんの期待に応えられなかったと思った。

お母さんに必要とされなくなったと思った。

 

寂しくて

でも子供の自分にはどうしようもできなくて(無力感)

待っても待っても帰ってこない(絶望感)

お母さんが傍からいなくなった(孤独感や不安感)

 

 

その時に本当はお母さんに

言いたかった数々の気持ち。

言えなくて心の中にしまいこんだ想い。

 

なんで帰ってきてくれないの

帰ってきてほしい

なんで置いてくの

傍にいてほしい

ママと一緒に居たい

私の何がダメだった?

いい子にするから置いていかないで

寂しい

哀しい

 

 

愛されたかった

一緒にいたかった

安心したかった

もっとだっこしてほしかった

もっとたくさんお話したかった

必要とされたかった

期待に応えたかった

 

 

 

今まで出せなかった数々の想いたちが

たくさん溢れてきて

涙がとまらなくなった。

 

あぁそうか。

 

その時感じ切れなかった想いたちが

まだ私の中に置きざりにされたままなんだ。

 

ずっと深いとこにしまいこんだまま

なかったことにしてるんだ。

 

深い場所に閉じ込めたから

出たがっている感情たちが

現実というフィルムをあの手この手で作り、

それを私に見せることで、感じさせることで

開放されるのを待ってるんだ。

 

 

私がずっと無いものとして

感じないようにしてきた感情たちを

これからたっぷり感じて

開放してあげたいと思った。

 

 

そしたらきっと

 

少しずつ

本来のあるがままの私に戻れるから。

 

たくさん自分に付けてしまったベールのような鎧。

薄皮がはがれていくように

一枚一枚脱ぎ捨てよう。

 

 

もう自分と戦うのはやめよう。

 

見たくないものたちも

本当は全部私の宝物で

愛すべき尊いものたちだったんだ。

 

 

奇しくも今日はお母さんの誕生日。

 

やっぱり私は

お母さんを選んで産まれてきたんだね。